こども陸上クラブホップは、石川県かほく市にあるうのけ総合公園陸上競技場、および津幡町にある津幡運動公園陸上競技場に新クラスを立ち上げる予定です。

その新クラスでレッスンを担当するメインの指導者は前川宏貴コーチです。前川コーチとは一体どんな人、どんな陸上選手だったのでしょうか。ホップ編集部が一問一答形式でいろいろ聞いてみました。

かほく、津幡クラスの入会をご検討されている方はもちろん、富山県内の教室に通っているホップのクラブ生、および保護者の皆さまもぜひ、ご一読ください。

前川コーチがどんな風に陸上に接し、どんな考えを持って指導に臨もうしているのかが分かって、少し身近な存在に感じてもらえるかもしれません。タイムが劇的に伸びるまでの我慢の大切さもきっと分かるはずです。

Q. 何県の生まれですか?

富山県南砺市の井波という木彫りが有名なまちで生まれました。

Q. 小学生のころは何を習っていましたか?

幼稚園のころは水泳、小学校の3年生から空手を始めました。

Q. 陸上を始めた時期はいつですか?

陸上は、中学生になってから始めました。もともと球技が苦手で、球技以外の運動ができる部活を探しました。自分の父親も陸上をやっていたので陸上を選びました。

Q. もともと足は速かったですか?

遅くはないですが、特別速いというわけでもありませんでした。真ん中くらいです。

Q. 陸上部に入ってすぐに活躍できましたか?

最初は全然駄目でした。陸上部に入部したころ、ウサインボルトという短距離の選手が北京オリンピックで活躍していて、100m走を自分もやりたいと思ったのですが、突出して足が速いわけでもなかったので希望する種目にすら進めませんでした。むしろ「身長が高いからハードルへ行け」と先輩に言われて、自分のやりたい種目とは異なる種目に取り組み始めました。

Q. ハードル走はすぐにできるようになりましたか?

全然できません。ハードル走は普通、着地の足を含めて4歩でハードルを順番に飛んで行くのですが、全部で10台あるハードルのうち3台しか最初は、歩数を守って飛べませんでした。当然ですが、大会に出てもずっと最下位に近い順番でした。

Q. 北信越大会常連のハードル選手だったと聞きました。いつから記録が伸び始めたのですか?

うまくいかない日が中学2年生まで続きましたが、2年生の新人戦前に行われた記録会でいきなり、ハードルの9台目まで歩数を守って走れました。ずっと最下位近くだった自分がその時、組の中で急に2着になりました。

さらに、その年の新人戦(地区)で18.3秒の記録が出て地区3番になりました。ゴールしてすぐ、1番と2番の選手に「すごいね。今までいたっけ?」と驚かれたくらいです。

希望した種目ではなく、渋々やっていたハードル走でしたが、文句を言いながらも顧問の先生の教えはとりあえず守ってやってきました。その積み重ねがあったからこそ、急にブレイクできたのだと思います。

誰にでも、ブレイクする瞬間はやってきます。その瞬間までどれだけ粘れるか、自己流に逃げずに指導者の教えをいかに守れるかが大事なのだと学びました。

記録が出てからは陸上も急に楽しくなりました。顧問の先生を含めた周りの人たちから自分に向けられる目も急に変わりました。「自分が変わったら周りも変わる。相手から変わるのではない」と中学2年生なりの発見もありました。

Q. その後、ぐんぐん記録は伸びていったのですか?

はい。新人戦の上位6位に入った選手が各地域から集まるジュニアオリンピックが新人戦後に行われ、短期間でまた1秒くらい記録が縮まりました。地区の新人戦で負けた1位と2位の選手すら追い抜いていきなり全体で2位になりました。そのころにはもう陸上に完全にはまっていて、ぐんぐん記録も伸びていきました。

中学3年生では県1位になった大会もありました。初めて出場した北信越大会では予選落ちし、他県のレベルの高さと層の厚さ、壁の高さを目の当たりにして、悔しくて泣きましたが、その悔しさが原動力になり、「上位の人たちを超えたい」と思って、陸上の強豪校である富山商業高校にスポーツ推薦で進みました。

Q. 高校時代の陸上競技生活は順風満帆だったのですか?

残念ながら順風満帆とは言えず、けがに泣かされた日々になりました。入学と共にけがをして、幸先のいいスタートを切れませんでしたし、2年生の新人戦ではレース中に大転倒してけがをしました。

高校時代、北信越大会は当たり前に出られるレベルでしたし、3年生の高校総体の県予選では自己ベストを更新して、全国への夢をいよいよかなえられるかもしれない状態まで成長もできました。しかし、高校総体の北信越大会を前にしたタイミングで足首を痛め、必死の治療も報われず、最後の大会を辞退せざるを得ませんでした。

当時の監督に「北信越は棄権する」と伝えた時、きつく怒られた記憶があります。「陸上競技は個人種目だけれど、これがもしリレーで、全国大会がかかっていたら皆に迷惑がかかるんだぞ」と言われ、自分のけがが周りの人に迷惑をかけると気付き、自分の甘さを自覚して泣きました。

Q.高校卒業後はどうしたのですか?

大学には進学せずに就職しました。その意味で、陸上から離れた生活が始まりました。

しかし、陸上の試合を観戦しに行ったり、陸上の動画を繰り返し見たりと、気が付くと心と体は陸上に向かっていました。

そんな折、地元のスーパーマーケットで中学校時代の陸上部の監督と再会し、中学校の部活で陸上を教えてあげてくれないかと言われました。時間もあったので二つ返事で部活に顔を出しました。その時、陸上指導者への道が始まりました。

中学生の前に立ち、陸上を教える段階になった時、不思議な感覚がありました。陸上の指導は生まれて初めてなのに、今までの学びや経験が、意識しなくてもぽろぽろと口から出てくるのです。自分の子どものころを思い返しながら接していると、子どもたちが何に悩んでいるのか手に取るように分かりもしました。

初指導の終わりに、中学校の監督に「今日は、とても良かったよ。教えるの向いているんじゃない?」と言われました。プレイヤーもいいけれど、教える側もいいなと思えました。

そこからは、最初はボランティアとして、後に部活動指導員として、中学生の陸上指導に携わるようになり、富山県大会の入賞者も輩出できるようになっていきました。その実績を見てくれていたホップ代表の川辺コーチに声を掛けてもらい、ホップのコーチとしてキャリアをスタートする形になりました。

Q.ホップの指導者になってこれから、子どもたちに何を伝えたいですか?

もちろん、陸上を通じて自分が学んできた考え方、言葉などは伝えたいと思いますが、なによりも単純に、速く走れるようになる喜びを感じてもらえたらと思います。

世界陸上のテレビ中継の録画テープをすりきれるくらい見ていた当時の自分の気持ちを、子どもたちに少しでも伝えられたらいいなと思っています。

まだまだ、指導者としてキャリアは浅いですが、ホップの先輩たちの指導の下で、懸命に日々勉強しています。陸上競技場でお会いできる日を心より楽しみにしております。

取材・文:ホップ公式ブログ編集長・坂本正敬

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