3人の生徒から始まったホップ。今では、富山県下最大の生徒数を誇るこども陸上クラブとなりました。そのホップが、どのような思いで立ち上がり、成長を遂げてきたのか、ホップ代表の川辺コーチに聞きました。現在、お子さんを通わせている保護者の方も、陸上クラブを探している方も、ぜひ読んでみてください。
自分の成長より、選手の成長を
―― こんにちは。今回から、クラブに対する代表の思いを連載形式でインタビューさせてもらえればと思います。
富山・石川に進出し、たくさんの子どもたちが通ってくれる陸上クラブに成長したホップ。ただ、このホップは、どのような状態から始まったのでしょうか。
今となっては、発足当時の状況を知る保護者も少ないと思います。現在、わが子を通わせている保護者の方にとっても、これから通わせようと考えている方にとっても、どのような経緯でこのクラブが立ち上がったのか、その歴史については興味があると思います。
そこで、第1回の代表インタビューでは、こども陸上クラブホップをどのような思いで立ち上げたのか、川辺コーチに聞かせてもらえればと思います。
川辺:分かりました。ありがとうございます。
―― そこで、早速の質問なのですが、こども陸上クラブホップはそもそもいつ始まったのですか?
川辺:スクールのオープンは25歳の10月です。
―― となると、学校を卒業してワンクッション、どこかに就職したのですか?
川辺:地方の銀行に就職しました。しかし、銀行に勤めたものの、本音の部分では陸上がやりたくて仕方ないので、社会人として最低限度学んだ後、25歳になる年で辞めました。
―― 陸上がやりたくて仕方ないとは、今で言うホップのようなスクールを始めたいという意味ですか? その年齢ではまだ、選手としても陸上を続けていると思うので、選手としてやりたいという意味ですか?
川辺:両方です。社会人になりたてのころは当然、自分でも競技をやっていたので、現役選手としての思いも強く残っていました。
ですが、年齢を重ねるごとに、指導者としての「もっとやってあげたい」という気持ちもどんどん育っていきました。
同じ陸上でも、自分が成長するより、他の選手を成長させる方がうれしいし、人に教える時間が楽しくて、教える時間をもっと増やしたいと思うようになっていきました。
―― 人に教える時間が楽しいとは、社会人になってから、選手としてだけでなく、どこかで指導もしていたのですか?
川辺:はい。銀行で働きながらずっと、週末の土日に、母校の福光高校で陸上指導をしていました。そのうち、高岡商業高校でも教えるようになって、関与した高跳びの選手が4人くらい全国大会に出場しました。
しかし、全国大会で敗退して泣いている選手たちや、全国に行けずに泣いている選手たちの涙を見た時に、もっとやってあげられた、自分は何をやっているのだと思いました。
―― その一方で、選手としてはどうなっていったのですか?
川辺:選手としての自分は下降線をたどっていました。社会人になるとともに技術以外の練習量が減って、体のメンテナンスも疎かになり、体幹などの細かい筋肉が落ち、本当に戦いたい試合で、散々な結果で終わるような状態が続いていました。
例えば、22歳の春、2m10mの記録を出して、2m13cmを跳べば日本選手権に出場できるという8月下旬の大事な北陸選手権で1m95cmというかすりもしない結果で終わりました。
次の23歳の年になると2mにすら届かなくなります。24歳の時は2mを何回か跳べたものの、選手としての気持ちの維持が難しくなりました。記録が出ているわけではないのに努力したいという気持ちも出てこなくなってしまったのです。
高跳びを指導しながら自分も跳ぶという両立だけでも難しいのに、銀行で昼は働いています。自分の脳の何パーセントをどのくらい割いていられるかが成功には大事だと思っている中で、陸上にもっと集中したい・陸上指導をして生きてきたいと思うようになりました。
そこで、24歳の4月下旬、25歳になる年に会社を辞めようと思い、親の大反対の下で離職の相談を会社にしました。
考えながらやる大切さ
―― 会社はすぐに辞めさせてもらえたのですか?
川辺:会社の人たちは基本的に「ばかか?」という反応でした。しかし、思いは抑えられません。陸上の指導で生活するなんて夢だとは分かっていましたが、アルバイトをしながらでもぎりぎり生活できればいいと思って、24歳の6月末に辞め、見切り発車で7月にスタートしました。
スクールのオープンは25歳の10月です。習い事は春スタート、秋スタートが一般的なので、秋からスタートしました。
―― 最初に、どのくらいの生徒が集まってくれたのですか?
川辺:3人です。年長さん、小学3年・4年生の子どもたちです。砺波市の小学校にチラシをまきに行き、砺波市陸上競技(木・金)でスタートしました。
―― 生徒3人ではスクールは成り立たないですよね。
川辺:はい。バイトと掛け持ちで指導していました。体育センターの受付バイトと、リラクゼーションサロンで、もみほぐしセラピストをしていました。
―― もみほぐしセラピスト。
川辺:はい。当時は本当に暇だったので、通ってくれている子どもたちの運動会の応援にも行っていました。
―― 転機は、いつやってきたのですか?
川辺:2年目の5月です。富山県総合陸上競技場で水曜日に新規開講したら、導入コース・導入コース・育成コースにそれぞれ6人・2人・2人と、合計10人が入ってくれました。

同時に、2年目の砺波でも、クラブのうわさと評判が広まって、銀行員時代のお客さんのお孫さんだとか、元上司のお子さんだとかも徐々に入ってくれて、生活ができるようになっていきました。
―― うさわが広まって生徒が増えたと簡単に言いますが、黙ってクラブを運営しているだけでは評判は広まっていかないと思います。何か、意識していた点はあったのですか?
川辺:「考えながらやる大切さ」を子どもたちに当時から徹底して教えていました。
自分も小さいころ、運動神経がそんなに良い方じゃなかったのです。しかし、考えてやっているとうまくなったので、考えながらやる大切さを子どもたちに伝えました。
プラスして、ちょっとでもできたら「いいじゃん、いいじゃん」と褒めていきました。気持ちが乗ってくると、例えば、跳べなかった縄跳びも、子どもたちが本当に跳べるようになっていきます。
もちろん今でも、当時と変わらぬ思いを貫いているつもりではありますが、当時は本当に時間があったので、物理的にも全身全霊で子どもに向かっていました。その辺が次第に、口コミとして広まってくれたのだと思います。
違いを認めた上で褒めて伸ばす
―― 素晴らしいですね。全身全霊子どもたちに向き合う姿勢や、子どもたちの変化をとらえて褒めて気持ちをのせるみたいな指導法は、今のホップ全コーチ陣に受け継がれていると感じます。

逆に、創業当時にはやっていて今はやっていない、変化していった部分はありますか?
川辺:考えが変わった部分はいろいろあります。例えば「技術ばかりを教えない」です。
当時は、人数が少なかったせいもあって、縄跳びが跳べない、速く走れない子どものフォームを見ては分析し、足首の角度などを細かく指導していました。
しかし、この手の指導方法をしてしまうと、技術の話ばかりになって、回数を重ねられなくなっていきます。量より質という言葉がありますが、神経系の発達がいちじるしいジュニア期には、質よりも量が大事な場面が多々あります。
自分の動きを細かく分析して試行錯誤を繰り返すジャンプ系の種目で育ってきた私には、他人の体の動きも細部まで見えてしまいます。それゆえに、技術論ばかりを小学生に伝えてしまうくせがあります。この点は、ジュニア期の指導においてはむしろ弱みだと感じています。

その弱点に、指導をやっていく中で気付いたので、ホップでは、途中から意識して技術以外を教えるようになりました。
他には「天才を殺さない」というか、多様性の大切さを受け入れる指導方法を長い時間の中で徐々に培ってきました。
例えば昔は、何かができない子どもがいたとしても、やり方が分からないだけであって、やり方さえ教えれば誰でもできると本気で信じていました。
ある意味で、全ての子どもを同じに見て、同じゴールを掲げて指導していたのです。
しかし今では、運動神経や発達にも人それぞれに特性や違いがあると受け入れられるようになりました。その違いを認めた上で、褒めて伸ばす大切さを痛感するようになりました。
陸上競技は、いろいろな種目があり、多様性を認めやすいスポーツです。多様性を認めた上で褒めるというスタンスは日本の陸上界全体の課題でもあります。その課題に挑戦している陸上クラブがホップだとの思いから、発達障がいの子どもの受け入れなども積極的に取り組んでいます。

―― 生徒数が増えて評価も高まってくると、どうしても人は自己模倣というか、自分のやり方が正しいと思い込んでしまいがちです。
しかし、川辺コーチは、目先の成功に甘んじることなく自分自身の指導方法を疑い、指導者としての成長を川辺コーチ自身が遂げてきたのですね。
いい選手を輩出すればオッケーではない
―― では、最後に、ホップのクラブ運営を通じて、どのような世界を将来的につくっていきたいと思っているのでしょうか? 発達障がいの話が先ほど少しありましたが。
川辺:道具や特別な技能がなくても始められる陸上は、間口が広い上に奥が深く、記録という数字を通じて誰もが成長を実感できるスポーツです。
大前提として、その陸上を通じて成長できる機会を、どんな子どもにも提供するクラブであり続けたいと思っています。
また、自分自身が育ててもらった陸上界にも貢献クラブにしていきたいと思っています。
例えば、私にとって思い入れが大きい地元の競技場として砺波市陸上競技があります。高校2年の時に走高跳びで2mを初めて跳び、日本3位になった時も、この場所で練習をしていました。
しかし、東京の大学に進学し、帰省のたびに練習場として使うようになると、タータンの劣化が目に付くようになりました。

硬くて、ザクザクするし、スパイクが刺さってもゴムを弾く感覚がありません。砺波市陸上競技場は、短距離走以外にも、やり投げ、走高跳びなど、さまざまな種目で全国大会出場者を5~6人出すくらいの競技場です。いい選手を輩出すれば自然に環境も整っていくと思っていたのですが、100mトラックの部分以外は改修されないという世の中の現実を知りました。
そこで、子どもたちの練習する環境を整えるという意味でも、スクール経営を通じて頂いたお金の一部を陸上業界に還元して、施設の保持・保全を行い、陸上界全体、ひいては社会全体の底上げをするような仕事も将来的にしていきたいと思っています。
―― 素晴らしいですね。発達障害のある子どもの受け入れ、陸上業界への貢献、陸上業界にお金を入れるという目標についてもまた、クラブの成長ストーリーとともに、追って聞かせてください。
今日は、生徒3人でスタートした陸上教室が、どのような思いでスタートし、どのように人気を獲得していったのかの部分を聞かせてもらいました。ありがとうございました。
川辺:分かりました。ありがとうございました。
(取材・写真・文:ホップ公式ブログ編集長・坂本正敬)